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魚沼と清水峠の歴史−古代から近代まで−その3

3. 近世の魚沼〜清水峠

三国街道の制定と滑水峠の封鎖
yukizarasi  前述したように、江戸幕府は三国街道を公式な街道として定め、参勤交代の大名や佐渡奉行・新潟奉行(佐渡金山と新潟港は幕府直轄の天領であった)は全て三国峠を通るようにしたため、三国街道には宿が整備されていった。
 一方、清水集落には口留番所がおかれ(阿部氏が責任者で役宅は現在の民宿泉屋)、女・點鑞・鑞実・米・大豆・馬・鳥類は通過させてはならないと申し渡され、また、逃散する百姓の人止めも厳重にするよう申し渡された。これは実質的に峠を封鎖されたのと同じである。こうして、清水峠は人の行交う街道から、人の移動を封鎖する関所へと変貌してしまった。
 しかし、ここで注意すべきことは、清水峠の存在を皆が忘れてしまったわけではないということである。明暦期の初めには、江戸に米を送る最短路として、高田藩が清水峠に新道の開削を計画した。しかし、三国街道沿いの村々、更には海路の小浜、敦賀の商人が利権の消滅を恐れ、開削に反対する嘆願を行い、新道開削には至らなかった。この後も繰り返し清水峠の新道開削が計画されるが、実現されるのは明治維新を待たなければならなかった。
入会山権利
 清水のような寒冷な気候では稲作は困難である。実際、江戸期の塩沢組絵図を見てみると清水村には石高の記載がない。峠が封鎖され、所謂商いは望むべくもなくなった清水は、他の山間部集落と同じように、林業で生計を立てていくこととなった。
 林業と書いたが、当時は現在の林業の概念とはちがい、山でさまざまな資源採取を行うものであり、一般的には山稼ぎと言った方が良いだろう。化石燃料も化学肥料もない時代、燃料は全て薪か炭であり、畑を耕す馬や牛は大量の秣草を必要とする。更には畑には肥料として山の下草・枯葉を鋤込んでいた。もちろん山菜やキノコも食べた。
 このように、農地の維持には大量の山林が必要であったので、山方の村では、自ら山稼ぎを行うだけではなく、里方の村から山手米・野手米という形で入山料を徴収し、入会山(共有の山)で薪をとる権利を売っていた。清水村の記録によると、「長崎村百姓一人当たり山刀一丁につき米一斗」とあり、これを収めると春30日間に限って清水の入会山において山稼ぎができた。同様に、鎌は一丁につき野手米二升を徴収している。
 当初、入会山の境界は緩やかなものであったが、元禄期に人口が増加すると、山林の過剰伐採が行われるようになり、境界や産出量あるいは水源を巡る山争いが増えていった。清水においても、木呂の生産量や西谷後での入会地の境界を巡って、隣の滝谷村との間で山争いがあった。また、変わった山争いの例としては、天保の飢餓の際に、山菜を巡って早川村の住民が山刀や鍬を手に清水の番所に押し寄せたとの記録がある。
縮生産
 魚沼郡の百姓達の主な金銭収入源の一つが縮の生産であった。縮はもともと白布(越後布)と呼ばれ、真白で撚りもかかっていなかった。この白布は苧麻(カラムシ)の繊維、青苧で作った布を雪にさらして漂白したもの(晴れた日に雪上に布を晒すと、強い紫外線でオゾンが発生し、紫外線とオゾンの作用で漂白されると言われている)であり、中世には京方面に輸出する越後の特産物であった。
yukizarasi  江戸期に入ると、この白布の生産高を米に換算して村の石高に数えるようになり、白布の石高の5割を銀で納税させるようになった。白布生産は冬の女の仕事であり、夏の農作業と別に石高を上げることができたから、藩主はこれを奨励し、白布の生産は活発になっていった。この中で、女達は技法を凝らし、撚りを入れしぼを出す技法や、染色した絣の技法を採り入れ、縮が生まれていったのである。
 縮の柄や、しぼの有無など、布の特徴は組(現在の町程度の大きさの、村の集合体)毎に決められており、組の人間がそれ以外の布を作ることはなかった。たとえば、堀之内組、浦佐組、小出島組では白縮、塩沢組では模様類や飛白、六日町組では藍縞、小千谷組では紅桔梗縞が織られた。
 しかし,この縮生産は江戸時代半ばをピークにその後は衰退し始める。組毎に決められたものしか作らないこと、そもそも冬龍りのなかで個々人が織るものであることから、組織的に生産され始めた他の産地の織物に対し、価格面、品質の均一性の面で太刀打ちできなくなったのである。寛政の改革による倹約令を受け、寛政三年(1791年)に江戸呉服問屋から卸値の引き下げ要求を受け、以降縮みの生産は縮小していくこととなった。
他邦稼ぎ
 縮の生産は縮小していったが、一旦貨幣経済に組み込まれた百姓達の現金支出が減ることはなかった。魚沼部では、輸入超過の状態が続き、金詰りが逼迫した状況となった。
 この頃から、主に北関東地域への日雇いの農作業、下女奉公などの他邦稼ぎ(出稼ぎ)が盛んになった。最も、この時代の他邦稼ぎは、後の出稼ぎ(冬稼ぎ)とは異なり、農繁期の春先に行うものが多かった。

1. 古代の魚沼  2. 戦乱の時代  3. 近世の魚沼〜清水峠  4. 明治・清水新道の開削