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魚沼と清水峠の歴史−古代から近代まで−その2

2. 戦乱の時代

太平記の世界
 中世の戦乱期、上越国境に位置する上田荘は、交通の要衝として重要度を増していった。南北朝期の戦乱を描いた軍旗物語「太平記」には、新田義貞の挙兵を描いた次のような一節がある。
「執権、北条高時から義貞追討の命が下されたことを知り、義貞は一族を集め相談を行ったが、「沼田荘を要害にし、利根川で敵を待ちうけよう」、「新田の者がほぼ抑えている越後の妻有荘(十日町市付近)へ行き、上田山を陣地に戦おう」等々、様々な意見が出て、一つにまとまらなかった。」
ここでは2つの点に注目したい。
 1つは、上野国が本拠地の新田氏が、上越国境を跨いで所領を所有していたことである。これは、峠越えの人の行き来の活発さを想起させる。
 もう1つは、要害「上田山」である。ここで言う上田山が、どの山を指すのかははっきりしないが、この時期の他の文書にも「上田城」の字が見られ、交通路の結節点である上田荘に、新田氏が城を築いていたものと見られている。その有力な候補の一つが坂戸城である。坂戸城は新田氏の 一族が城を築いたとされ、室町期、南越後を支配する重要な城となる。
坂戸城と上田衆
 南朝方についた新田義貞が足利尊氏に敗れると、足利方の上杉憲顕が越後守護となり、上杉家の家宰である長尾氏が坂戸城に入った。長尾家はその居城により守護代長尾氏(越後国府)、栖吉長尾氏(長岡)、上田長尾氏に分かれ、主家の上杉氏の分裂もあり、互いに反目しあった。上田荘は、関東管領の山内上杉氏の領地であった。このため、上田長尾氏は山内上杉氏に被官しており、越後上杉氏に被官していた宗家の守護代長尾氏及び栖吉長尾氏とは対立していた。
 この上田長尾家の家臣集団を上田衆という。上田衆の多くは在地の土豪であったが、山内上杉氏により派遣され、越後に入部した関東圏出身の武士たちもいた。
長尾景虎
 守護代長尾家は長尾為景の死後、天文十二年(1543年)に家督を継いだ晴景が病弱で、揚北衆をはじめとした国人領主は晴景に叛いた。晴景の弟、景虎(のちの上杉謙信)は栃尾城、三条城などでこれを鎮圧、また黒田秀忠の謀叛を鎖圧し、国人領主たちの信望を集め、守護代家は晴景派と景虎派に分かれて争った。
 景虎は栖吉長尾氏の支援を受けており、上田の長尾房長、政景は晴景に味方し争ったが、天文十七(1548)年、守護・上杉定実の仲介で長尾景虎が兄・晴景から守護代の座を譲り受けることで混乱は一旦収集した。しかし政景らは従わず、景虎方の諸将と小競り合いを繰り返したため、天文二十(1551)年八月、政景討伐のために景虎が出陣し坂戸城包囲を表明、房長・政景父子は降伏した。以後、政景は許されて景虎の重臣として仕え、春日山城の留守を預かるなど、重要な役についたが、永禄七(1564)年、野尻池で宇佐実定満と舟遊び中に謎の死を遂げることとなる。政景の死後、坂戸城は城主不在となり、上田衆が持ち回りで在番した。
関東管領・上杉謙信
 永禄元年(1558年)、小田原を中心に台頭してきた北条氏の攻勢に耐えかねた、関東管領の上杉憲政が清水峠を越えて越後に逃れてきた。景虎はこれを保護し、関東管領の補佐となった。
 景虎の元には、北条氏の圧迫を受けた佐竹氏、里見氏等から救援の依頼がたびたび入り、景虎は何度も関東に出兵(越山という)することとなった。この出兵のために、景虎は直路(清水峠)と三国峠を整備し、清水には直路城(志水城とも呼ばれる)を、三国峠には浅貝寄居城を築いた。直路城は、清水集落の南側、登川と柄沢に挟まれた地元で「城の越」と呼ばれている柄沢山につながる細い尾根の先端の現在送電線の鉄塔が建っているところに築城され、30人程の直路衆が常時配備されていた。
 永禄四年(1561年)三月、前年に越山し、厩橋城(前橋市)で越年した景虎は小田原城を包囲した。農繁期が控えていたため、包囲は僅か1カ月で解かれたが、景虎は関東で強い存在感を示すことに成功し、帰路の鎌倉・鶴岡八幡宮で関東管領職の就任披露を行った。同時に上杉の姓も継ぎ、上杉政虎(後に出家して謙信)と名乗った。謙信の越山は生涯で十数回に及び、その際には、上田衆がたびたび先陣を切ることとなった。永禄十一年(1569年)一月には、上田衆は厳冬期の峠を超えて沼田城の救援に向かったことが記録されている。
御館の乱
 天正六年(1578年)三月、謙信の死によって「御館の乱」が勃発する。越後国は長尾政景の子で謙信の養子となった景勝と、小田原城の北条氏康の子でやはり謙信の養子となった上杉三郎景虎をそれぞれ擁立する派に分かれ内乱となった。御館の乱は1年に渡って続いたが、景勝側の勝利に終わり、上田衆は戦の功労によりますます取り立てられた。しかし、慶長三年(1598年)、豊臣秀吉の命により、上杉景勝は会津へ転封となり、上田衆も会津へ入部する者と上田荘に残る者とに別れ散り散りとなっていった。徳川の世は、もう目の前に迫っていた。

1. 古代の魚沼  2. 戦乱の時代  3. 近世の魚沼〜清水峠  4. 明治・清水新道の開削